宮廷楽団への困惑
今年の1月2日、午後10時に、NHKテレビで「NHKスペシャル・宮内庁楽部〜1300年続いた宮廷楽団」という番組が放映された。1300年間も雅楽を伝承しつづけてきた貴重な家系の方々が取材され、雅楽の習得、実演などの実態が描かれていた。非常に興味深い内容で、継承された伝統文化の奥深さには感動を覚え、誇らしい気持にさえなった。
「ところが、番組が進み、次のようなことが報じられた時から、ぼくの困惑が始まった。それは、この雅楽を専門とされる由緒ある家系の方々が、職務上の役目として、西洋音楽も演奏されるという事実だった。天皇皇后両陛下が各国元首などの国賓を招くその晩餐会の場で、いわゆる「ターフェルムジーク」として、西洋音楽の管弦楽団の編成で、入場、乾杯、前菜、スープ、魚、肉、デザートと、演奏し続ける。ぼくが困惑したのは、テレビを通じて聴こえてきたその音が、こう言うのは申し訳ないが、そのような場にふさわしいレベルに達しているとは思えなかったからだ。むしろ大変居心地の悪い音だった。
このことで、ある記憶が蘇った。以前、首相官邸での昼食会に、二度ほど出席したことがある。一度はタンザニアの大統領、二度目はポルトガルの首相が主賓だったが、その時に演奏されていた音楽の粗雑さ、ヘタさに非常に驚いた経験があるのだ。出入りの演奏家仲介業者の仕事を誰がチェックしているのだろうと思いながら口にした昼食の味をほとんど覚えていない。
その記憶がこの宮廷音楽の現象に重なり、困惑が深まっていった。
昼食会や晩餐会に招かれる国賓たちには当然音楽的教養というものがある。その人たちはどんな感想を持つだろうか、などと考えるうちに「日本国は世界において決して尊敬されないという説があるが、そうだとすれば、原因の一つはこれではないか」と妄想が広がった。各国元首が国に帰って「くくくく」などと笑いながら「ひどい音だったねえ」と反芻する姿が目に浮かぶほどの重症になった。
いてもたってもいられず、知りあいにこの辺の事情を聞きまくった。すると「誰も表立って言えないが、あの管弦楽団の音がヨクナいというのは斯界の常識」という事実が分かってきた。友人の一人はやはり以前に中国要人の歓迎晩餐会をテレビで見ていたときに、鳴り出した音を聴いて「地震が起こったかのような不安な気分になった」が、次に「ああ、これは親善のためアマチュアが何らかの理由で起用されたのか」と納得したという。
一方、音楽家でない人はあの番組を見てもさほど気にしないという事実もある。「そうか、両方やるのか。大変だなあ」あるいは「両方出来るとは素晴らしい。素敵だ」とテレビの製作意図通りに感激する。だから「そうやって大多数の人が別に問題がないと思っているのならいいじゃないか」という意見は当然あるだろう。しかし、こればかりは、そういうものではない。
そもそも、宮廷楽団の方々が最初は納得していなかった。
明治維新の後、雅楽の家の方々に西洋楽器もやるようにという要請があった時に、その方々は反発し、一斉に辞表を提出した。そういう歴史的事実があったと同じ番組が報じている。まさに、この態度が正しかったのだ。それなのに、その切実な願いを理解しなかった鈍感な当事者は、宮廷楽士の役割という制度一辺倒の発想から西洋楽器を彼らに押し付け、以後も実情の変化への対応なしに放置し、結果として、由緒正しい家柄の方々と我々日本国民に恥をかかせ続けている。
西洋音楽がこの国に必要ならば、今は、それを専門に全身全霊を捧げているはるかに上手な人たちが沢山いる。その人たちに任せるのが当たり前の考え方だ。そうなって初めて我々は、安心して国賓を迎えることができる。
誰よりも招待の主である皇室の方々が西洋音楽の高いレベルを熟知されているということを忘れてはならない。その方々が毎回国賓を迎えるたびに演奏される音楽が、そのようなレベルであり続けるとしたら、これはまさにユユシき問題ではないのか。
いやあれはご一家のご親戚の方々がおもてなしされる音楽なのだから上手い下手の対象ではない、との議論もあるかもしれない。しかし、あの場はたとえご親戚の集まりであったとしても、同時に、公と言えば日本でこれ以上ない公の場所だ。税金が使われているなどという常套句は使いたくないが、まさにこの国の文化の程度が問われるぎりぎりの現場なのだ。
この問題、早くなんとかしていただきたい。このままでは「国賓の来日」というニュースを聞くたびに、びくびくして夜も眠れない。
(この原稿は、月刊『文藝春秋』1999年5月号に発表したものです)
1999年5月17日
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