?? 天祖神社とは|[経堂鎮守]天祖神社
天祖神社とは
御祭神と御神徳
天祖大御神 伊勢の皇大神宮にお祭り申し上げ、「これ祖、これ宗、尊きこと並びなし」とたたえられた、諸神の本源の神様で、明るい(鏡)、円満な(玉)、強い(剣)心を持って暮せとお教えになりました。
稲荷大神 衣、食、住の祖神で、すべての産業の守り神、又福徳開運成就の神とあがめられ、京都、伏見の稲荷大社から、明和年間にお迎えしました。
北野大神 詩歌、筆道に秀でられた、菅原道真公をお祭りし、学問、文芸の道に御神威が高く、特に入学祈願の方が数多く御恵をいただいております。
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小田急線から見た神社の杜
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明治41年頃の風景(クリックすると拡大写真が見られます)
立地

 当神社は小田急線の経堂駅と千歳船橋駅の間、線路の北側に位置します。小田急線は平成16年(2004)11月にこの区間の高架複々線が完成しましたが、高架を走る電車の車窓からこんもりと茂った神社の杜(もり)が見えます。

創立

 当神社は、江戸幕府の編纂(へんさん)した地誌『新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしのくにふどきこう)』(1830)に、 「伊勢宮 除地一段(じょちいったん) 村ノ西ニアリ ワズカナル祠(ほこら)ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持(ふくしょうじもち)」と記されています。
(除地は、年貢免除の土地。一段は、一反。約992平米)
 「鎮座ノ年代ヲ知ラズ」となっていますが、土地の古老の間では永正(えいしょう)4年(1507)と言い伝えられています。
 永正4年といえば、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城主として後北条(ごほうじょう)の基礎を築いた頃で、世田谷はその傘下にある源氏の名門吉良(きら)家の領地でした。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は、氏神である八幡神と同様伊勢神宮(いせじんぐう)を篤(あつ)く崇敬しており、関東の地にも御厨(みくりや)といって伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進(きしん)しました。このご縁でご祭神天照大御神を祀る天祖神社・神明社(しんめいしゃ)が祀られました。 但し、当社がそのご縁によるものかは不明です。
 因(ちなみ)に、経堂在家村(きょうどうざいけむら)といわれていた江戸末期には、村内に伊勢宮、天神社、四稲荷社の六社があったようです。

※ 『新編武蔵国風土記稿』のPDFは、「国立国会図書館ウェブサイト」の「近代化デジタルライブラリー」の該当ページをダウンロードしたものです。
国立図書館
発展

 明治維新(1868)の年に、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が公布され、江戸時代までの神仏習合(しんぶつしゅうごう)は否定されお寺と神社を分離することになりました。
 明治政府は明治4年(1871)太政官布告(だじょうかんふこく)により社格制度(しゃかくせいど)を制定しました。また、明治39年(1906)には、一町村一社を原則に統廃合を行うとする神社合祀令(じんじゃごうしれい)が出されました。
 当社は『新編武蔵国風土記稿』に「伊勢宮(いせのみや)」と記されていますが、官国幣社(かんこくへいしゃ)以外の神社(民社)(みんしゃ)では「宮」の称号の使用が禁じられましたので、天照大御神の「天」と氏神様(先祖神)の「祖」を合わせて、明治7年(1874)村社(そんしゃ)「天祖神社」としたとのことです。
 社格制度は昭和21年(1946)神道指令(しんとうしれい)により廃止されましたが、当神社の入り口にある「社名標」には「村社」の文字が残っています。また鳥居(とりい)と石灯籠(いしどうろう)には「明治四十一年九月合祀記念」の文字があります。

天祖神社氏子会加入のお願い
 拝啓 氏子各位には益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。
 さて、今般の神社は、宗教法人という一社一社が独立した法人ですので他からの援助や補助は一切受けておりません。従いまして近隣の神社は不動産などの収益を維持費に当てております。
 しかしながら当社は、神社の景観を維持し、鎮守の杜の尊厳を保つべく、収益を上げるために境内を利用することは極力避けたいと考え、氏子会費の収入をもって維持管理を図っております。
 昨今、都会の樹木が減少していく中、鎮守の森を皆様でお守りいただくという趣旨にご賛同頂きまして氏子会への加入方宜しくお願い致します。会費は年額で一口1,000円となっておりますが、何とぞ二口、三口と御奉賛をいただきたくお願い致します。
敬具
天祖神社社務所
[TEL] 03-3420-2674
天祖神社氏子会入会申込書(兼台帳)   PDFダウンロード
申込書
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